「や、やだ、ちょっと!」 その日彼女があった虚は、随分と異質なものだった。 相手の記憶を読めるらしいそれは、もっとも大切なものへ姿を変える。 虚が初めに変わったのは、雛森も見たことのある女性の死神だった。 部下は自分の大切な人を前にし、呆然として立ち尽くしていた。 相手が本物ではないと頭では理解しながらも、刀を向けることが出来なかった。 結局傷ひとつつけられず、虚の手にかかった部下は。 辛そうに、悲しそうに、それでも最後に微笑んでいた。 目の前で、赤が舞う。 次は雛森の番だった。 にたり、と意地の悪い笑みを浮かべた後、虚は徐々に変化していった。 若い女からだんだんと形が変わり、一人の少年の姿になった。 (嫌だ) 大切な彼を切ることなんて、できなかった。 いくら虚でも、外見は日番谷、そのままだ。 しかし目の前でやられた仲間を見て。 (―死にたくない) 日番谷の声で、姿で。 「桃」 優しく雛森の名を呼んで、微笑んだ。 口角を吊り上げ笑みを作っているが、目が笑っていない。 そんな笑い方、彼はしない。 「どうした、桃」 首を傾げ、親しげに近づいてくる。 その呼び方は、ずっと前に望んでいたもの。 今はそう呼ばれなくなってしまったけれど、心のどこかではそれを淋しいと感じていた。 こんなかたちで聞きたくはなかった。 ああもういやだと、雛森は目をつぶって飛び込んだ。 愛刀の名を、始解の言葉を、小さな声で叫びながら。 日番谷ではない、と必死に自分に言い聞かせた。 刀から肉を切る感触が伝わって、恐る恐る目を開けた。 目の前にいたのは、いつもと何も変わらないように見える、日番谷の姿。 ひとつだけ、変わっていたところ。彼の白い羽織は血に染まっていた。 「や…やだ…」 ず、ず、と無意識のうちに刀を抜いた。 ぬるぬるとした血が手を伝って流れる。 ぺたりと地面に座り込み、呆然とそれを見ていた。 苦しそうな顔をして、恨めしそうに雛森を睨みつけているそれは。 斬ったのは、虚だ。 そう思っても、血塗れの彼も見たことのない笑い方も、衝撃が強すぎた。 にげたい。みたくない。 痛いくらいに目を瞑り、早くこの悪夢が終われと願った。 震える体を抑え、そろそろと目を開けた。 幼馴染みの形をしたそれは、通常の虚のように空気に溶けて消えていった。 消える直前の虚を見て、思わず目を見開く。 「…あ、そんな、なんで…」 戻って報告。部下の隊葬の用意。 そんな当たり前のことは、とうに頭から消えていた。 「や、いやだよう…」 笑っていたのだ。最後の最後に。 顔を歪ませ、最後まで雛森を目で捉えていた。 救いを求めるように、手を伸ばして。桃、と掠れた声は確かに彼のものだった。 「ひつがや、くん…」 血塗れの手を見た。まだ血の暖かさが残っている。 半分泣きそうになりながら、それでも涙は流さない。 ただ、愛しい彼の名を呼ぶ。 ふらりと雛森の体が力を失い、どさりと軽い音を立てて倒れた。 握り締めた刀はそのままに。 血に濡れた頬を、一筋の涙が流れた。 |