「日番谷隊長。お話が、あります」

いつもは穏やかな微笑を湛えている四番隊の隊長は、今日は無表情だった。 無表情というよりは、感情を押し殺しているようだった。 口調も淡々としていていつもの優しさはない。不自然なそれに眉を顰める。

伝えられた言葉に、日番谷は目を見張った。

「嘘…だろ?」

話が分からなかったからではない。卯ノ花の報告を信じなかったわけでもない。 卯ノ花が悲しそうに目を伏せ、ゆっくりと首を振る。


ただ、信じたくなかったんだ。
そんな、残酷な話。







「雛森!」

日番谷が慌てて駆け込んだ先には、一人の少女がいた。 患者用の白い服を着た彼女は、ベットの上で手にした書物を退屈そうにぱらぱらとめくっていた。 普段と変わらない元気そうな姿に良かった、と安堵のため息を漏らしたのも一時。

自分の名を呼ばれたことに気づいて、少女が顔を上げた。 いつも纏めている髪は下ろしており、頭の動きと同時にさらりと流れた。黒い大きな目が動く。

彼女は、確かに日番谷をみて。




―――そして。




「…誰…ですか?」

雛森は、日番谷を見て、不思議そうに首をかしげた。大きな目が瞬きをし、長い睫毛が上下する。

受け入れたくなかった現実は、確かに目の前にあった。 誰、というその一言で、それがわかってしまった。

日番谷は、何も言えなかった。
卯ノ花から伝えられて、覚悟はしていたはずなのに。








卯ノ花の言葉を思い出した。

『きっと、心が耐えられなかったのです』

記憶喪失は、精神的なもの。 認めたくない現実から目を背けた結果。 誤魔化そうとして、記憶を勝手に改竄してしまったらしく、無理に記憶を取り戻そうとすれば、彼女は傷つく。

傷ついても立ち直ればいいけど、もし失敗したら―――。


どうしますか、という残酷な問いに、日番谷は答えを返せなかった。 どうしてそれを自分に問うのか、と卯ノ花を恨みたくなった。しかしそれは卯ノ花の優しさなのだ。

忘れたのが全ての記憶だったら、なんとか戻してやろうと、荒療治もしたのかもしれない。 きっと全て記憶をなくしても、彼女は前にすすもうとするから。それをとめようとは思わないから。

でも、違う。

雛森がなくした記憶は、日番谷に対してのものだけ。 今の雛森の中に日番谷はいないけれど、他のことは全部かわらずにあるのだ。

なにもかわらない。
彼女の大切なものは一人の上司と仲間と。


「…決まってんだろ」

そう、はじめから決まっている。
ぎゅっと唇を噛んで、拳を握り締めて。感情を押し込める。

「…外傷の治療だけ、頼むな」


傷ついているのなんて自分だけでいい。








目の前にいる少女は、何も変わっているようには見えなかった。 それでも確かに彼女には変化があって、自分との記憶はまったくないのだ。 その証拠に、彼女にいつもの微笑みはなく、知らない人に対しての不安げな表情しかない。 胸が、痛くなった。


自分は十番隊の隊長の日番谷冬獅郎。名乗って、はじめまして、と。 自分が此処に来たのはただ会ったことの無い副隊長に挨拶するためで。

「雛森桃」に会うために、ではなくて。


(―――なんでだよ)


言えない。口が動かない。
頭では必死に言おうとしているのに、どこかで自分がそれを拒否している。
傷つくことを受け入れたはずなのに、痛みなんか耐えられると思ったのに。

はじめてなんかじゃない、ずっと昔から一緒だった。
覚えていないのか。どうして忘れたのか。


そんなこと、不安そうな目の前の少女に、言えるはずなかった。どうしてわざわざ自分のせいで傷つけるようなんだ。 必死で、言葉を胸の奥に閉じ込めた。


「…大丈夫ですか?」


ああ、となんとか一言返すと、良かった、といって彼女は少し微笑んだ。

「なんだか、泣きそうだと思って」

何も変わらなかった。笑顔も優しさも。 初めて会って誰だかわからない相手にも、笑えるのだ。 この笑顔を壊すことだけは、してはいけないと思った。ずっと前から思っていたこと。 自分に出来ることをしなければと、ゆっくりと口を開く。

「十番隊、隊長の、日番谷冬獅郎だ」
「十番隊…あ、乱菊さんの隊の…?」
「副隊長にも、一応全員に挨拶しようかとおもって」
「偉いですね、大変でしょう?…わざわざこんなところまで、すみません」
「…別に」

一旦口に出してしまうと、すらすらと口が動いた。 嘘だろうがなんだろうが、彼女にとっては『真実』だ。 今の彼女にとっての「日番谷冬獅郎」は幼馴染みの少年ではなく、ただの上司の一人。

「…初めまして」
「初めまして、よろしくお願いします」

何気なく手を差し出すと、彼女も手を出して軽く握ってきた。雛森桃です、そう言ってにっこり笑った。 日番谷が誰だかわかって一応は安心したのだろうか。 向けられた笑顔は、自分の好きだった優しい笑みだ。

それでも、今はその笑顔を見るのが辛かった。 何も彼女は知らない。自分が日番谷を見つけたことも、此処にくる原因となったことも。 一緒に眠ったことも夜遅くまで遊んでいて怒られたことも。何気ない事で笑いあったことも。

今の雛森と日番谷をつなぐものは、なにもない。



「大丈夫ですか…?」
「は?」
「なんだか、やっぱり泣きそうっていうか、辛そうっていうか…」


どうして。

覚えているはず無いのに、分かるはず無いのに。 自分の感情は、表情には出にくいはずだ。 こんな些細な変化、気づくのは彼女だけだった。

どうしてこんなにも。


「なんでも、ないから」

彼女を安心させるために、笑ってもらうために。
日番谷は、彼にしては珍しい微笑みを、彼女に見せた。

「…治っても、あんまり無理すんなよ?」








――それは今にでも泣き出してしまいそうな微笑みだったけれど。









大丈夫。まだ、笑ってる。
(作り笑いでもいいでしょう?)












やってみたかった記憶喪失ネタ。
自分との繋がりよりも、雛森が傷つかない道を選ぶ日番谷。
やっぱり辛いけれどどうしようもない…そんなお話です。

十月二十四日・修正