「久しぶりやなあ」
いつもの笑みを浮かべて話しかけると、相変わらずねと呆れるように彼女は笑う。
それは昔のような子供らしい笑顔ではなく、一歩引き優美に笑う、大人びた動作。
一線引かれたような、距離が開いたようなそれをなんだか悲しく感じたりもするけれども。
美しい彼女は、根本的には変わっていないのだと思う。
どうして彼女を拾ったのだったか。今はもう親しく話すこともできなくなった彼女との、遠い昔の記憶をよみがえらせる。
幼い頃の苦く青い記憶。色などなく、白黒ばかりだった世界。
荒れた土地に倒れ、泥に塗れた彼女をなぜか美しいと思ってしまったのだ。ぼろぼろの衣服、傷んだ髪、荒れた肌。
汚い大人達しかいない穢れた場所で、初めて綺麗なものを見たと思った。
鮮やかなものなど何一つなく、枯葉のような濁ったような色だけだった。その中で見た美しい金色。
気が付いた時には、思わず手を出してしまっていた。飽きたらすぐに捨てるつもりだったのだ、所詮ただの気紛れと暇つぶし。
生きる意思のないぼんやりとした目を覗き込むと、綺麗な瞳が見返してくる。
名を名乗ると、目だけをこちらへ向けながら彼女が呟くように口を動かす。へんな名前、と彼女は無表情のままで言った。
よくこの状況でそんなことを言う、と可笑しくなって笑みを深める。手を差し伸べても、彼女は動かなかった。
軽く身じろぎしてから、ふらつきながらも一人で立ち上がる。短く丈の合わない服から覗く足は酷く細く、棒のようだった。
一緒に食料を探しに行き、寒い夜には身を寄せ合って眠る。彼女のそれまでの生活は随分と酷かったようで、適当に食べて、眠って。
動けなくなったからあそこで倒れていたのだという。もし他の誰かが先に見つけていたら、と思うと恐ろしくなった。
同時に、こんな感情が自分にまだあったのだと驚いた。どうでもいいと思っていたのに、随分と執着するようになってしまった。
暫く安定した生活をするうちに彼女の骨と皮しかないような細い手足も、柔らかみを帯びてくる。
痛んだ髪はそれなりに艶を取り戻したし、荒れていた肌も滑らかになる。
綺麗になってよかったなぁと言いながら眺めていると、あんたは変わらないわねと彼女は呟いた。
羨むような口調だったが、何故かはわからなかった。彼女の綺麗になった金髪を優しく撫ぜる。
さらされと手の間を零れ落ちる黄金色。出合ったときよりも少しだけ大人びた彼女は、くすぐったそうに目を細め、笑った。
どうしようもなく、愛しくなった。彼女をまもらなければならないとおもった。
本来の気丈さからか決して口にはしない、それでも彼女にとっては自分が全て。
数ヶ月放っておいては流石にいないかと、多少心配になりながら荒れ小屋を覗いた時に見た彼女の表情。
出合った時と同じ生きる意思のない瞳。それでも、自分を視界に入れたときに、彼女の目に光が戻った。
しっかりとこちらを見てくる彼女の瞳から目が離せなくなった。
頼りに出来る人なんて、誰もいなかった。信用できる人も共に生きられる人もいない。
ただ自らの身を護り生きていく。自分が護る、というのは少し新鮮で楽しいと感じた。
まもれていたのか、なんて酷く曖昧なものだけど。傷つけてしまっていたかもしれないけど。
それでも確かにあの時は二人笑っていた。いつか来るであろう別れなど口には出さず、ただ寄り添い生きていく。
あのときが一番しあわせだったのかもしれない。手を伸ばせばすぐ届くところに彼女はいた。
少し躊躇ってから、彼女の手を、握った。昔のように寒さと飢えで荒れた手ではない、滑らかで美しい白い女の手。
細く長い指は随分と華奢だ。彼女は訝しんで顔を歪めた。
どうしたのよ、と明らかに不快そうな顔をしながらも、彼女は手を振り払わない。その手をぎゅっと握り、あたたかさを確かめる。
彼女は此処に居るのだと、少し安心した。きっともうこんなことはできないから、最後に元のように話したかった。
何も知らない、真っ白な子供のころのように。それは到底無理な話だったけれど。
なんでもない。じゃあね、軽く言って手を離した。彼女はますます不可解そうに顔を顰めたけれど、何も言わなかった。
そのまま背を向け、自分の隊舎に向けて歩き出す。もう、大丈夫だと思った。さいごのわかれ。
きっと今すぐではないけれど、きっと来るのだ、その日は。いくら足掻いて抵抗しようが意味がない。じわりじわりと呑み込まれてしまう。
「ギン」
「…なんや?」
振り向くと彼女は、憮然とした様子でたっていた。久しぶりに名前で呼ばれた気がする。
開いた距離をずかずかと歩いて埋め、ぺちんと市丸の頬に手を当てた。
「あんたが何をしようとしてるのかなんて、わかんないわよ。何処に行くのかなんて、言われなきゃわかんない」
そこまで言っていったん区切り、伏せていた目を上げた。こちらを覗き込んだ目は、いつかのあの日と同じ。
綺麗で、目が離せなくなる。
「でも。…ちゃんと、帰ってきなさいよ」
どちらも、目は逸らさない。頬にそっと当てられている手が微かに震えている。
帰ってくるまではずっと待ってるんだから。それだけを呟いてから、彼女は手を放した。
きっと帰ることは出来ない。それでも彼女は待っているのだ、あの日のように、今までのように。
胸が苦しくなる。こんな感情捨てなくてはいけないのに。
その場しのぎでも何でも、うんと言えばよかった。必ず帰るから、きっと戻ってくるから。
それでも言えない。足早に立ち去る彼女を追いかけることすら出来ない。
「ギン」
名を呼ばれた方を振り向く。そこには昔の上司である男が穏やかな笑みを浮かべて立っている。
この笑顔の裏にどれだけのものを隠しているのか。この男のために、自分はどれだけのものを捨てなければいけなかったのか。
彼女はいつも、同僚や上司といっしょに楽しそうに笑っていた。
自分がそれを微笑ましく見ていたことに気づいたのは、そういえば目の前のこの人とあの幼い少年だけだった。
最初は自分でも気づいていなくて、自分よりも随分と幼い少年に「気づいてねえのか?」と
不思議そうにいわれてはじめて彼女を目で追ってしまっていたことを知った。
幸せそうに、楽しそうに、笑うところなんて沢山みてきたはずなのに。
記憶の中にある彼女は、いつも感情を堪えたような顔をしている。もしくは、手を離してしまった時のように呆然としているか。
いつかそんな顔すら忘れてしまうのだろうか、それは酷く恐ろしいことだった。手に入らないのなら壊してしまえばいい。
そんな理不尽で彼女を傷つける考えは受け入れられず、せめて笑っていてくれと手を離した。
まもるため、そんな都合のいい言葉は使わない。傷つく彼女を見たくないという自己満足。
やさしいしあわせな憧憬を抱いたのは、もう随分とむかしのこと。
なんですか、ともうすっかり作るのに慣れてしまった軽薄な笑みを顔に貼り付け彼に答える。もう、逃げることなど許されない。
そんなことをするつもりもなかった。自分で選んでこの背についてきたのだから。
暗い暗い闇の中。
もうすぐもっと奥へ行こうとしている。もう彼女に手を差し伸べることは出来なくなった。
昔のようにそばで笑いあうことなどできるはずもなかった。ただ今笑ってくれていればいいとおもう。
傷つけないように、穢してしまわないように。自分に出来ることはこれしかなかったのだ。
それでもきっとこれで、
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